国は国民が知らぬ間に少しずつ搾取する 妊婦加算・社会保険料を例に

2018年4月から妊婦は医療機関を受診した際に妊婦加算を算定され、3割負担であれば初診230円、再診110円が上乗せされている問題は妊婦のTwitterへの投稿がきっかけとなり広く知られるようになった。

 

関連記事

「妊婦加算」実質自己負担ゼロへ 妊娠税との批判多く

 

そして2004年から13年間にわたって毎年0.354%ずつ引き上げてきた厚生年金保険料。

労使折半であるため実際の負担は毎年0.177%増であり、標準報酬月額が30万円の場合、毎月531円の負担増となった。

少しずつ引き上げられてきたために、負担が大きくなっていたことに気付かない人も多かったことだろう。

現在の厚生年金保険料率は18.3%で固定となっており、当面の間は引き上げられることはない。

次回の財政検証は来年2019年であるが、ここで恐ろしい数字が示されると話は別である。

約15%はこの社会保険料に消え、手取りが大きく減るのだから国民は関心を持つべきである。

そして散々搾取された挙句、老後に待ち受ける苦難とは・・・

 

関連記事

税金よりも高い社会保険料 保険料率18.3%から25.9%へ? 待ち受ける最悪のシナリオとは

 

要するに、国は少しずつ、音を立てずに搾取しているという現実に国民は気付くべきである。

そして、今回の妊婦加算の問題のように理不尽に搾取されている事に気付いたら、その情報を広く発信するべきだ。

国民の監視の目が機能することによって、妊婦加算のように搾取を免れることができるかもしれない(今回は自己負担ゼロになる方向)。

妊婦加算の問題はTwitterで発信され、声を大きくした世論が政治を動かした事例であり、今後の政治に期待が持てる結果となった。

ある2世議員が世論に便乗して人気取りをしているように見えなくもないが。

 

自分に関係する制度についてのみでも構わないので、関心を持つことが理不尽の発見に繋がるのだろう。

誰もが情報を発信することのできる時代だからこそ、この利点を活かして情報を共有することが重要だ。

 

この記事を多くの方に読んでいただき広く理解されることで、暮らしやすい社会になることを望みます。

「妊婦加算」実質自己負担ゼロへ 妊娠税との批判多く

2018年4月から妊婦が医療機関を受診した際に妊婦加算が上乗せされていたことを知っていた方は多くはなかったようだ。

3割負担の場合の自己負担額は初診230円、再診110円と少額であるため、明細書を細かくチェックしなければわからないだろう。

広く知られるようになったのは今年9月頃からで、妊娠中の女性のTwitterでの投稿がきっかけである。

窓口で妊娠しているのであれば会計が変わると伝えられ、この女性もそこで初めて妊婦加算の存在を知ったのだろう。

妊婦の自己負担が増えるのは少子化対策に逆行する制度であり、むしろ妊婦の負担を軽くすべきであるとの批判が続出した。

少額ではあるものの、妊婦であることを理由に多く搾取されていたことに怒りを覚える人が多かったのである。

 

妊婦の場合、例えば薬剤の選択の際に胎盤透過性を評価し胎児への影響等を考慮して慎重に選択しなければならない等の負担が医療従事者に生じる。

この妊婦加算は、医療従事者の一般患者よりもリスクの高い妊婦に対する特別な配慮の評価であり、医療関係者であれば納得のいく制度である。

しかし、上述のように国民感情としては納得のいかないものであり、厚労省は加算を残すものの実質的に負担が生じないような措置を検討する。

 

国は国民の知らないところで少しずつ搾取しているのである。

部活の目的は社蓄精神の刷り込み 評価を人質にした逃れられない仕組み

学校では部活に入ることを強制されるわけではありませんが、部活を強く勧められます。

そして多くの場合、就職の面接において学生時代の部活動について質問されます。

部活をやっていた方が、入試において面接がある場合や学力水準が低くても合格しやすい推薦入試・AO入試においては非常に有利であり、就職の際にも有利になることは多くの方がご存知でしょう。

なぜ部活(主に運動部)をやっていた経験がある方が有利なのか。

その理由を考察します。

 

次に示す関連記事で、学校教育において日本人の社蓄精神がどのように育まれるのかを解説をしています。

関連記事をお読み頂き、社蓄精神の基礎を日本人に刷り込む過程について理解した上で続きをお読みください。

 

関連記事

日本人の社畜精神はどのように養われたのか 洗脳教育の恐ろしさ

 

関連記事では、日本人の社蓄精神の基礎を学校教育において刷り込み、社蓄精神を容易く受容できる状態にして労働市場に送り出しているという事実について述べました。

部活動においては、さらなる洗脳教育によってこの優秀な兵隊達の質を高めていきます。

部活の中でも特に運動部に関して言えることですが。

 

基本的に部活に入ってしまうと休みは無い。

平日は毎日放課後に練習し、休日も試合か練習だ。

ここで優秀な社畜に求められる、休まず働くための土台を作っていく。

休まずに練習することの素晴らしさを教え、休みが無いのが当たり前という考えを刷り込んでいく。

しかし、子供は欲求に正直な生き物だ。

休みたいとかサボりたいと思うのは当然のことで、屋外での部活であれば悪天候によって練習が休みになることを強く望む者もいる。

悪天候ではなく、彼らにとっては恵みの雨なのだろうか。

しかし、そんな本音は親しい同級生に漏らす程度で指導者や上級生には言えるはずがない。

要するに、休む事に対する罪悪感を植え付けられてしまうのだ。

適度な休息は人間にとって当然必要であり生産性を高めるのだが、根拠の無い根性論によってそれが否定され、科学的な事実をも超越してしまう。

子供が何を言っても無駄なので、この誤った考えを変えることは出来ず、大昔の古い考えに基づいた著しく生産性の低い活動に付き合わされることを余儀なくされる。

 

それが嫌なら辞めるという選択肢もあるのだが、評価に影響する。

就職するまで(最悪の場合就職してからも)その評価が付きまとうのだから、嫌でも辞められない。

途中で投げ出したという事実は進学・就職において悪影響となるため、耐えるしかないという状況を生む。

学力に自信がなければ尚更だろう。

生物の本質だろうか、人間もまた自分に負荷をかけずに楽をしたいため、進級し後輩ができると面倒な雑用の大部分を後輩に押し付けてしまう。

体育会系とは、チームの為に尽くすという精神よりも自分が絶対的な存在として立場の弱い者の上に立ち、面倒な事を押し付けたり思い通りに使おうとする利己主義的な考えを育んでしまう。

顧問や先輩の為に尽くすという事は見返りを求める行為であり、結局は自分の為に行う偽善である。

学校における評価とは、実力だけではなくこのような偽善も大きなウェイトを占める。

先生に気に入られると、実力が伴っていなくても高い評価を獲得できるのである。

学校ではこのようにして会社の為、上司の為に尽くすという社蓄精神の基礎を刷り込んでいく

 

中学校や高校で部活をする期間は一般的にそれぞれ2年数ヶ月程度と短く、学年が上がるほど面倒を下に押し付けて楽ができるために耐えられてしまう。

そのため、理不尽に耐えたという実績を作り上げるためのハードルが低く、この理不尽に耐えるのが当然であるという考えが蔓延しやすい。

評価を人質として理不尽に耐えることが当然であるという考えを刷り込むことで、社蓄精神の受容をさらに容易いものとする。

 

体育会系出身者の社蓄精神は、このような過程を経て強固なものになるのである。

 

関連記事

体育会系はなぜ就職に有利なのか 兵隊としては優秀な体育会系

体育会系は知能レベルの低い、考える頭のない人種 トップはまさしく独裁者

日本人の社畜精神はどのように養われたのか 洗脳教育の恐ろしさ

これまでの記事で社畜を否定してきましたが、今回は日本人の社蓄精神がどのように養われたのか(刷り込まれたのか)を考えます。

 

関連記事

「社畜にメリットなし」変わる若者の価値観 若者VS老害社畜

 

当然ながら、子供の頃に受けた教育によって思想や価値観が形成されていくものです。

つまり、諸悪の根源は教育にあります。

学校という教育機関において社蓄精神を植え付けているわけではありませんが、その基礎となる考えを洗脳教育によって日本人に刷り込み、社会に出てから社蓄精神を容易く受容できる状態にまで仕上げて労働市場に出荷しているのです。

 

社蓄精神の基礎となる考えはどのように刷り込まれているのでしょうか。

無駄な行事について考えてみるとわかりやすいでしょう。

クラスの為、チームの為と「協調性」なる人権を完全に無視した自己犠牲の精神を要求される。

この「協調性」を否定することは戦前・戦時中における「非国民」のような存在として扱われるため、小さな村社会においては大きなリスクとなる。

授業の時間の多くを行事の練習時間に充てられ、散々練習に付き合わされて自己犠牲を強いられたにもかかわらず、放課後の練習やら休み時間を削っての練習にまで参加を強要される。

さらには成長期の子供から睡眠時間を奪って健全な心身の成長を妨げてまでも朝練を強要される。

子供の頃から時間をかけて取り組む事が正しいとか、協調性という自己犠牲の精神が重要だとか刷り込まれ、生産性やメリット等を全く考えずにチームに尽くすことの素晴らしさを教え、刷り込んでいく。

この考えに反する事を述べようものならば叱責され、その村社会での居場所を失っていく。

そこには憲法で保障されている言論の自由や思想の自由なんてものは存在しないのである。

本当にクラスやチームの為を思うのであれば、行事のために無駄な時間を過ごし労力を注ぐのではなく、将来役に立つ学問を深める事や自由に楽しい時間を過ごす事を提案したいものだが、洗脳教育を受けている子供たちはその提案が間違っている事だと考えてしまう。

先生と呼ばれる独裁者から教わった事と違うからである。

そこにかけた時間や労力に見合う成果が期待できるかどうかとか、メリットがあるかどうかということの一切を考えることができず、ただ先生の言うとおりにしか動くことの出来ない生産性の乏しい子供達。

考える力が乏しく、ただ先生の指示通りに動く優秀な兵隊の卵でしかない子供たちには何を言っても無駄なのである。

 

このようにして社蓄精神の基礎を教育現場で刷り込まれてきた兵隊達は、労働市場に出荷され優秀な社畜として搾取される日々を送ることになるのである。

教育とはまさしく「洗脳」である。

 

関連記事

部活の目的は社蓄精神の刷り込み 評価を人質にした逃れられない仕組み