法を超越した「常識」という従順さの押し付け 学校教育の真の目的とは

学校教育は国策 国家と一部の富裕層による国民からの搾取が目的

日本国憲法で定められている「国民の三大義務」は義務教育の中で教えられている。

勤労、納税、教育を受けさせる義務である。

国家は国民から搾取することを憲法という最高法規で明示しているのである。

つまり、学校教育は国民の義務を何の疑問も持たずに行い、国家に貢献する優秀な国民の育成が目的である。

この学校教育は産業革命の頃から現代まで本質は変わっていない。

産業革命の頃には工場による大量生産が行われるようになったが、工場での生産性は国家の軍事力や税収と直結するため、生産性の向上は国家の課題でもあった。

現代の工場ではかなり機械化が進んでいるが、まだ人の手に頼る部分は大きい。

当時はまだ機械化がそれほど進んでいないため、現代よりもずっと「機械のように働く人間」が必要だった。

そのため、学校教育は国家の成長のための工場における労働者の育成という目的もあった。

学校教育は国策であることは言うまでもない。

学校教育は国家の為にあり、国民本位ではないことは明らかである。

現代でもそうだが、企業は特に若い世代に対して、生活するのに最低限必要な金しか労働の対価を支払わない。

一方で、経営陣は儲けを労働者に還元することはなく、独占する。

その状況に疑問を持たずに会社の為と積極的に搾取される優秀な労働者を評価し、管理職にすることでコストを掛けずにさらなる儲けを出す。

会社おける洗脳教育、富の偏りについては関連記事で解説しているので、そちらを参照していただきたい。

学校教育は、一部の富裕層が労働者から不当に労働力を搾取することで彼らを豊かにさせるという目的もある。

富裕層は多額の税金を納め、軍事力の向上に貢献するので国家にとってもメリットがあるのだ。

つまり、学校教育の目的は使いやすい従順な労働者の大量生産により国を成長させることにある。

そのために、学校では「常識」という彼らにとって都合のよい価値観の植え付けを行うのだ。

 

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「常識」の正体 国民は一方的に搾取される

学校教育は、工場で労働に従事するために必要な読み・書き・そろばんのような基礎となる教養だけでなく、先生の号令や指示通りに動くという「常識」、目上の人を敬い従順に言う事を聞くという「常識」、辛いことに耐えて我慢するのが当然であるという「常識」、自分の自由な時間を削って国の為、学校の為、チームの為に犠牲になるのが当たり前という「常識」など、あらゆる「常識」を刷り込む。

時間割に従って同じサイクルを繰り返し、軍隊のような全体行動や先生という独裁者への服従を求められる。

同じ工場に決められた時間に毎日通い、管理職の指示に従い、指示された労働に従事するという工場での労働の予行演習のようである。

この一定のサイクルの繰り返しをこなすことのできる「立派な大人」を大量生産するための工場が学校である。

考える力の乏しい子供の頃から「常識」を刷り込み、一定の規格から逸脱しない、先生という独裁者に従順な者を評価するという仕組みも会社での評価システムと変わらない。

 

「理想的な国民」という「規格」こそが「常識」の正体である。

この「規格」とは、国家や会社、集団の為に搾取されることに疑問を持たないことや、秩序を守ることが本質である。

先に例示した「常識」を要約すると、この「規格」が根底にある。

第一に、我慢、忍耐、根性などが美徳とされるのは、搾取されていることに気付かないバカの存在が搾取する側にとって都合がよいため、このような価値観を刷り込むのである。

私は行事のための練習などはよくサボっていた。

ゴールは何なのか、それを行うことに意味はあるのか、そこにかける時間や労力に見合うメリットはあるのかなど、総合的に判断した上で非国民扱いされても構わないと判断したのだ。

くだらない練習で、放課後や朝の自分の時間を奪われることにメリットはないし、何も得られない。

頑張ることに意味があるというのは幻想であり、ムダなことに時間をかけても何も成果は伴わない。

例えば、合唱コンクールの練習は正直なところ、練習の前後で何が変わったのか全くわからない。

客観的に評価する指標は無いが、上手くなったといっても低いレベルの変化であるように感じられた。

ただ長い時間練習したという自己満足に浸り、バカな子供達は随分と満足気だったのを見て内心ではかなりバカにしていたのを覚えている。

そのことが一体何の役に立ったのだろうか。

もっと自分の好きなこと、興味のあることに没頭した方が得られるものは大きかったはずだ。

この国の国民の生産性の低さの根源は学校教育にあるのだろう。

社会に出ると、「チームの為」が「会社の為」に変わる。

信頼する人の為に自分を犠牲にするのは構わないが、会社の為に自分を犠牲にしたところで何も見返りは無い。

ただ経営陣が富を独占するだけである。

子供の頃からチームの為、クラスの為などと刷り込まれているバカは「会社の為」という社蓄精神を容易に受け入れてしまう。

長時間労働による寝てない自慢が美徳とされたり、定時になったらタイムカードを切ってサービス残業するのが当たり前とか、朝早く出社して就業時間前に掃除するのが「常識」とか、労働基準法を超越した「常識」によって、労働者は搾取され、異を唱えようものならば、危険な思想を持つ異端児として認識される。

同調圧力とは恐ろしいもので、この国の国民は酷く洗脳されていて狂っているのである。

 

先生や上司、目上の人を敬い、従順になるというのは、秩序を守るということであり、管理しやすい労働者はやはり都合がよい。

私は中学生の頃には大人よりも考える力があり、知識量も質も遥かに上回っていた。

だからこそ、バカな大人達の数多ある誤りは分かっていた。

先生という独裁者の発言には誤りが多く、言うことを聞かないことも多かった。

そのため、試験では満点近く取っていても、成績(評定)は5段階で3か4をつけられることもあった。

実力と評価には全く相関性がなく、試験の成績が悪くても、従順なバカが評価される。

例えば、黒板に書かれた文字をひたすらノートに写す写経に何か意味はあるのだろうか。

しかも、内容がまとまっていなくて理解の促進に繋がる有効なツールではないならば尚更だ。

無駄な作業であることは言うまでもない。

プリントを配布すれば済むことだ(現代では紙媒体でなくてもよい)。

私はこの写経はムダだと判断し、ノートを取らなかったら怒られ、低く評価されてしまった。

つまらない、わかりにくい、退屈な講義や授業を受けることに意味はあるのだろうか。

ダメな講義を聴いてもダメになるだけである。

私は高校までは出席管理が厳しいため仕方なく出席していたが、大学生になるとよく講義をサボっていた。

それでも単位を落としたことは1度もない。

できるかどうかが問題なのであって、決まった時間に大学に来て座っていることに意味があるわけではない。

私は最終的な目的が何なのかをよくわかっていたので、適切な判断ができたのである。

もちろん、面白くてわかりやすい講義は理解の促進に繋がる有効なツールであり、活用すべきである。

しかし、基本的に学びは学校に行かなくても個人レベルで実践できる。

学ぶためのツールは数多く存在する。

学校に依存しなくても学ぶことはできるのだ。

 

挙げると切りが無い。

やはり、バカな大人による価値観の押し付けにより、日本人の生産性は著しく低くなってしまった。

繰り返すが、学校教育は国民本位のものではなく、国家や一部の富裕層が国民から搾取するのが目的である。

先生の言う事を聞く(洗脳される)ということは、生徒や学生の能力の向上よりも管理しやすい(使いやすい)という点にフォーカスが当てられており、黙って言う事を聞くバカは都合がよく、秩序が保たれる。

指示に従わない頭の良い人がいては秩序が保たれない。

学校や会社での評価は、管理しやすいとか、従順であるとか、その程度のものだ。

目上の人を敬い、言う事を聞きなさいという教えも、秩序を守るためだ。

年上に対しては敬語を使い、年下に対してはタメ口というのも、学校における年功序列に基づく垂直的権力関係の刷り込みによって「常識」となっている。

しかし、私はバカな年寄りなんて尊敬できない。

尊敬できるかどうかは年齢の問題ではない。

年下であっても、優れた方には敬意を持って接するのは当然だと思うし、年功序列という考え方が根本的におかしいのだ。

バカな先輩のことを陰ではバカにしていたのならば、あなたの感覚は正常だ。

 

幸せの価値観も洗脳教育によって刷り込まれ、生き方のモデルを示される

学校における洗脳教育によって一定の規格をクリアし、標準化された製品である国民は労働市場に出荷され、社会の歯車となっていく。

国家による洗脳は、仕事の面だけではなく、プライベート、生き方そのものにまで及ぶ。

幸せとは何か。

国民は結婚して子供を産み、育てることが幸せだと刷り込まれていて、そのことを信じて疑わない人が少し前の世代ではほとんどで、若い世代でも多い。

詳しくは、関連記事を読んでいただきたいが、国家は国民の幸せなどどうでもいい。

国家の成長の為に結婚して子供を産んで欲しいだけなのだ。

国家の成長の為に示された生き方のモデルが本当に幸せなのか、よく考えるべきだろう。

 

関連記事

「女性は子ども産む機械」発言に透けて見える支配する側の意識

 

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結婚して子供を産むことは誰にとっての幸せなのか

国家は国民に何を求めるのか。

主に労働、納税、出産である。

労働者として休み無く働き、結婚して子供を生み、立派な労働者に育てるのが幸せであるという古くからの価値観の継承は、まさしく国策である。

この価値観は、産業革命の時代から現代まで受け継がれている。

国家による洗脳教育はうまく機能していて、この現状は多くの国民が思考停止の状態に陥っているという現実を示している。

果たして結婚して子供を産むことが本当に国民にとっての幸せなのだろうか。

 

別に国家は国民の幸せなど望んでいない。

将来の労働力を製造し、お国の為に搾取されることを望んでいるのである。

姿の見えない支配者の為に将来の労働力を製造させることを目的として「結婚=幸せ」という価値観の刷り込みが行われてきたのである。

 

ここまでの内容がよく理解できない方は、堀江貴文氏の著書である『すべての教育は「洗脳」である』を読んでいただきたい。

学校教育があなたの為のものではなく、国家や支配者、一部の富裕層の為に存在する制度であることが理解できるだろう。

 

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大臣の「女性は子ども産む機械」発言に潜む支配する側の意識とは

2007年、当時の厚生労働大臣である柳澤伯夫氏が、「女性は子ども産む機械」と発言し、炎上したのを覚えているだろうか。

女性を「機械」やら「装置」等と発言し、マスコミの食い付きもよかった。

これまでの記事の内容を理解していれば、もうお気付きだろう。

 

国務大臣は支配する側の人間である。

国家の為、自分達のような支配する側の人間の為に「理想的な国民」を育成し、搾取する役割を担う(実質的には学校教育のエリートである官僚がその役割を担い、大臣は置物というケースも多い)。

人を「機械」とか「装置」と表現するところから、国民の幸せを望んでいるわけではなく、国家の視点で考えているのは明らかである。

ただ労働力を製造する機械であればいいのである。

この発言は、内に秘めておくべき本音がポロッと出てしまったのだろう。

 

そもそも柳澤氏は、この問題発言以前にホワイトカラー・エグゼンプション(労働時間規制の適用除外)を推進した人物である。

日米投資イニシアティブ、日本経団連、在日米国商工会議所の要望を受けて、年収400万円以上の給与所得者を対象に1日8時間、週40時間の規制を撤廃する、定額働かせ放題制度を推進した。

当然ながら、「残業代取り上げ法」、「サービス残業合法化法」、「過労死促進法」などと批判され、見送られた。

やはり、国家や一部の富裕層のことしか考えていないのである。

当時は見送られた定額働かせ放題制度だが、今年2019年4月から高度プロフェッショナル制度(高プロ)がスタートする。

やはり、国家は国民の幸せなど考えておらず、国民から搾取することしか考えていない。

 

出産の話に戻すが、2015年には菅義偉官房長官が民放の番組で大物俳優の結婚に関連して「この結婚を機に、ママさんたちが一緒に子供を産みたいとか、そういう形で国家に貢献してくれたらいいなと思っています。たくさん産んでください。」と述べたのである。

やはり、国民の幸せではなく、「国家に貢献」することを求めているのである。

支配する側の意識がどのようなものかは十分に理解できたのではないだろうか。

「結婚=幸せ」なのか、よく考えるべきだろう。