学校の教員の言う事なんか聞かない方がいい。
それはなぜか。
学校での評価は単に結果とリンクするものではなく、プロセス評価が大きなウェイトを占めるため、実力と評価が大きく乖離するケースが多いものです。
絶対評価ではなく、教員の主観が大きく反映されるために適切な評価が出来ていないのが現状です。
社会に出てからの評価は結果が全てです。
どれほど努力しても結果を出さなければ意味がありません。
一方で学校での評価はプロセス評価が大きなウェイトを占めるため、試験の結果も大きく反映されるのですが、授業中の発現、態度、宿題をやったかどうか、ノートを取っているか、教員への媚売り等の影響が大きく、社会に出てからの評価方法とギャップが大きいのです。
そのため、学校で高い評価を獲得しようと無駄な努力をしてきた人は、それほど実力が伴っていないにもかかわらず高く評価されるものの、社会に出てからは実力不足が露呈し評価されないという事態を招いてしまいます。
授業をしっかり受けて一字一句間違えずにノートを取る事に意味があるのでしょうか。
確かに、授業や講義がわかりやすく理解の促進に繋がる有用なツールであれば活用すべきでしょう。
しかし、下手でわかりにくく、つまらない授業や講義を受けることに意味があるのでしょうか。
駄目な講義を受けても駄目になるだけではないでしょうか。
勉強は自分でするものであって、無理に人から教わるものではありません。
授業や講義が有用なツールではないのであれば、別に受けなくてもよいのではないでしょうか。
ある進学校の授業風景を紹介すると、わかりやすく教えてくれる先生の授業はしっかり受けているのですが、わかりにくくつまらない先生の授業では寝ている生徒も多く、起きていても授業は聴かずに自分で勉強しているものです。
高校では出席に厳しいためとりあえず教室にいるのですが、大学では露骨に教室内の人口が減少します。
頭のいい人には終着点が見えていて、ただ漫然とつまらない授業を真面目に受けて先生から評価されることよりももっと重要なことが何かがわかっています。
最終的に出来るようになることです。
試験で点数を取ること、つまり出来るようになることです。
媚を売って頑張ってるアピールをすることがムダだということがわかっています。
努力の方向性を間違えてしまうと、むしろマイナスになることもあるということを理解すべきです。
現在の教育現場では、本質を理解している優秀な学生が高く評価されず、実力のないムダな努力をしている学生が高く評価されてしまうという客観性の乏しい評価制度が用いられ、生産性の低い学生を社会に送り出していく仕組みとなっていることは大変残念なことです。
余談ですが、小学生の算数の授業であまりにも無駄なことを強要する教員がいたのを思い出しました。
分数の分母と分子の間の横線(括線)を定規で引かないと怒るバカな教員がいました。
さらに意味がわからないのですが、マイナスやプラス、イコール等の記号は定規を使わなくてもよいという理解不能な拘り。
子供が何を言っても無意味なので、親にクレームつけてもらえば良かったと後悔しています。
当然のことながら、その教えは何の役にも立っていません。
教員という独裁者は、優秀な学生の足を引っ張る行為をすぐにやめるべきです。
高校入試では、試験の点数だけではなく中学校での成績も加味した総合評価になるため、日頃から教員への媚売りや無駄な頑張ってるアピールが必要になるようですが、中学校での成績が悪くても入試本番での点数が高ければ合格しますから、その後の事を考えても実力を高めることの方が重要です。
最終的なゴールは何なのかを考えましょう。
学校で高い評価を獲得できればそれでよいのか、それとも社会に出てから実力を発揮して高い評価を獲得していくのか。
ただ人の言う事を聞いてその通りに動くだけの人生は頭を使わなくていいため楽ですが、これからの時代、そのような人はAI(人口知能)によって淘汰されていくことでしょう。
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